compassion について

これも多元的な意味を持つ感情周波数で、この単語は一般的に「慈悲」や「慈愛」とも訳されるものですが、「慈悲」
や「慈愛」という単語はディヴァイン・ラブそのものと混合される恐れがあるため、単に「感情・想いを同じにする」という最もシンプルでフラットな「同情」という訳語を用いています。

「慈悲」や「慈愛」はどこか、私にとって遠い響きです。

親から子へ、恵まれた者から恵まれない者へ、上から下へと流れるエネルギーに感じてしまうのです。

仏教で言えば、釈迦・菩薩のような存在から発せられる波動のように私は感じてしまい、どうしても「慈悲」とは訳せま
せんでした。

片や「同情」は、もっとフラットで横にも上にも下にも流れるものであり、年齢・立場によらず、誰でも日常的にシンプルに感じることができるものであると私は思っています。

・・・さて、少し個人的な想いを語ってしまいましたが、これらの美徳を実践する際、その土台となる基礎的な心構えと
して、私は「non-judgment」がカギとなるものであると皆さんにお勧めしたいです。

non-judgment」とは、判断を下さないこと。
善いことであるとか、悪いことであるとか、その裁きをしないこと。
人を裁いた瞬間、それは二元性の世界に分離した状態であることを意味しているのだと思います。

裁きという行為を行わないことにより、ハートの美徳の実践が容易となるわけです。

あなたの人間関係の中で不和が生じた際に「
non-judgment」をやってみてください。
必ず、その効果が実感できると思います。

最後に、
Chapter 28 のシモンの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

「あらゆるすべてのもの、つまり、人類の昇華(アセンション)プロセスの一歩一歩は、ハートの美徳を表現することを選択
した、一個の人間から始まる。それは、何処か天国のような場所からここにもたらされたものではなく、神がそれを命じたのでもない。

それは、選択した一個人の自由意志なのだ---シンプルに己のハートの叡智を表現することを選択した個
人の。ひとりがそれを行えば、もうひとりがそれに続くことができる。そして、それによって多くの人々がそれを行うことが可能になる。

そして、それが広がっていくのだ。何故なら、そのハートの美徳は、裁くという行為が一切ない故に伝染力があ
るからだ」

--- Dohrman Prophec, Chapter 28, Virtues of the Heart